菅 建彦

菅 建彦

Tatsuhiko SUGA

日仏工業技術会会長
兼 鉄道交通委員会委員長

1965年
東京大学法学部卒業
同年4月、日本国有鉄道入社
1986年
パリ日本国有鉄道事務所長
1987年
4月からJR東日本 パリ事務所長
1990年
国際鉄道連合(UIC)上級技術顧問
1993年
(財)東日本鉄道文化財団専務理事
2003年
(財)交通文化振興財団理事長・交通博物館長
2007年
(財)交通協力会理事長(2011年8月から公益財団法人)
2010年
日仏工業技術会 鉄道交通委員会委員長
2017年
同会長

日仏工業技術会は1955年に創立されました。この1955年がどんな時代だったかと言うと、第二次世界大戦が日本やドイツの敗戦に終わってから丁度10年、日本はようやく戦後復興を終えたところでした。翌年7月に発表された経済白書の「もはや戦後ではない」という結語が流行語になったことも、今では遠い昔話です。1951年にサンフランシスコ条約が結ばれ、翌1952年に日本は主権を回復していましたが、ソ連との国交回復と国連加盟(いずれも1956年)はまだ実現していませんでした。

敗戦で在外資産と外貨を失った当時の日本では、海外旅行に厳しい制約が課せられていたため、フランスまで渡航することができた人はきわめて限られていました。戦前ヨーロッパへの最短ルートだったシベリア鉄道は戦後の冷戦下で全く使われず、日欧間の航空路はまだ揺籃期で、多くの渡航者がスエズ経由の船を利用した時代でしたから、フランスは本当に遠い国だったと思われます。今でも多くの日本人にとってフランスは芸術、食文化、ファッションなどの国と思われていますが、戦後間もないこのような時期に、「工業技術」を軸に日仏間の交流を推進しようとした諸先輩の理想と心意気に、深い共感と敬意を覚えます。

今日では発達した航空路と情報通信網のおかげで、フランスはかつてほど遠い国ではなくなりました。しかし、私たちのフランス語の能力もフランス文化への理解も、1950年代にフランスを訪れた先輩たちに比べて、さしたる進歩を遂げたとは思えません。むしろ、交通通信手段と情報技術の発達がもたらしたグローバリゼイションの結果、地球規模で「英語一強」の言語状況が生まれ、英語以外の外国語に対する関心と学習意欲は低下し、それぞれの国民が大切に守ってきた文化的伝統や価値観までもが、英語主導の画一化の大波に呑み込まれようとしているかに見えます。

しかし、このような時期だからこそ、英米的な価値観とは一線を画しながら独自の知性を磨き、感性を育んできた日本とフランスが、科学・技術を含むあらゆる分野で交流を深める意義はますます大きくなっていると言えましょう。

一昨年創立60周年を迎えた本会は、「日々の暮らしの豊かさと規律をめざして」をテーマとして記念行事を展開し、その一環として行われた三回にわたる連続講演会の記録が、このほど日仏工業技術会誌特別号「現代科学を問い直す」として刊行されました。60年前とは大きく変わった環境のもとで、科学・技術のあり方を根本から問い、本会のこれからの課題と進路を模索する試みの大きな成果です。

本会の趣旨に賛同される方々が、一人でも多く本会の活動に参加してくださることを期待しています。