都市におけるオープンスペースと建築の役割
― 遊歩者の視点から見たパリ ―
Le role de l'architecture et des espaces publics dans la ville
― Paris du point de vue du flaneur ―
楠本正幸 Masayuki KUSUMOTOE
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18世紀には産業革命がヨーロッパの社会構造を大きく変え始める。それまで権力を独占していた貴族や聖職者に対抗して、資本主義階級とも呼べる経済を握った新しい市民階級(ブルジョア)の力が急速に大きくなってきた。そして1789年のフランス革命を迎えるわけであるが、その大きな変革の流れの中で、都市空間もより市民に開かれたものになっていく。リュクサンブール庭園などもこの時期に市民に解放され、流行の服をまとい公園に散歩に行くというような、それまで貴族に限られていた習慣が市民のライフスタイルとして広まっていった。
一方で、産業革命により交通機関が発達すると、それまでの歩行者中心の都市空間が大きく変貌した。都市に人口が集中し、郊外の自然が都心からだんだん遠くなっていき、また街路は車の移動のための空間として占有され、市民のためのオープンスペースとしての機能は急速に損なわれていった。それに伴い、都市生活者が街の中で自然に触れたり、人々とのコミュニケーションをとったりするスペースに対しての欲求が、急速に高まっていったのである。すなわち社会の変化が人々のライフスタイルを変え余暇を過ごす場を必要としたということであり、パリにおいても都市空間の再生が社会的課題となっていた。
そういった状況の中、19世紀の後半ナポレオン3世の時代に、セーヌ県知事オスマン(Haussmann)の下、パリの大改造が実施される。彼は、パリの都市空間を単なる審美的な部分としてではなく、都市を成立させるシステムの構成要素としてとらえ、主として市街戦対策を考慮した治安確保と国家の威厳を表現する都市景観創造という、極めて政治戦略的な理由から、幅広く見通
しの良い放射状パターンの街路網の整備を行った。景観的には、中世以来の迷路的都市構造を根本的に変え、その中でそれぞれ孤立して存在していた様々な遺構や記念碑的建造物をネットワーク化し、世界の中心都市としてふさわしい姿に改造したのである。
また彼は同時に、今日のパリにとって極めて重要な位置を占める多くのオープンスペースの整備を行っている。オスマンに抜擢された造園家であり技術者のアルファン(Jean-Charles
Alphand)は、まずブーローニュの森とヴァンセンヌの森の改修を行った。これらはもともと王家の狩猟のための森であったのだが、彼はこれを一般
に開放された公共公園として、ピクチャレスクな英国式のデザインで整備した。これは、従来のフランス様式が絶対王政のイメージに繋がるということもあったが、パースペクティヴなヴィスタを強調したそのデザインが単一の視点しか与えず、多様な視点の連なりで構成される英国風景様式に比べて自由で開放的・進歩的なその時代の雰囲気にそぐわなかったことも大きな理由の一つであろう。
アルファンはまた、ビュットショーモン公園(1859年、fig.7)、モンソー公園(1860年)、モンスーリ公園(1865年)など一連の公共公園を整備した。これらは、都市の中で見捨てられていたり、有効に活用されていなかった土地を都市生活者のための豊かな時間消費の場所に再生したのである。デザイン的には、どれもピクチャレスクな英国式が採用された。
それらの中で、ビュットショーモン公園が最も大規模であり、かつその時代のデザイン指向をよく表している事例であると言える。この公園はパリ北東部の丘陵地に位
置し、かつて石灰岩の採掘場として、その後処刑場や屠殺場として使われ、当時はゴミ捨て場になっていた場所であった。アルファンは、その特異な地形を活かして、鉄道橋などの工業技術を象徴するモチーフをちりばめつつその特徴を強調するようなデザインで全く新しい空間を実現した。いわば、自然と都市、あるいは自然と技術をコンセプトとする19世紀のテーマパークと言えよう。
ここで重要なのはデザイン様式の選択というよりも、その時の時代性と都市生活者からのニーズに基づいた計画ということであり、都市そのものと同時にかつ一体的にデザインされているということがその基本的本質なのである。
今世紀に入って、パリに限らず多くの大都市は急速な経済発展に伴う都市への人口集中と自動車交通
増大のうねりの中、無秩序な高密度化・スプロール化と中心部のスラム化に悩まされていた。そんな中、こういった都市問題への解決策として注目されたのが、ル・コルビュジエの都市理論である。彼は、1922年に現代都市計画案(une
ville contemporaine)、1925年にパリの問題に応用したプラン・ヴォワザン計画(Plan
Voisin)を発表し、現代都市を成立させる都市活動の新しい分類(労働、居住、交通
、快適性)に基づいて、交通体系の改善及び建物の高層化による都市空間への緑地帯の導入という都市構造の根本的改造を提案した。また、1937年にはパリの具体的街区のための改造計画(交通
網の整備と緑地に囲まれた高層建築群によるスラムクリアランス)が提案されたが、結局パリにおいては彼の理論は実現されなかった。
結果
的に、オスマン以降パリでは近年に至るまで、オープンスペースの創造という意味においてめぼしい成果
はあまりなかったが、1970年代に入ると、パリ市内の都市環境の再生が再び議論されるようになった。その最初の記念碑的プロジェクトとして、1977年にポンピドーセンター(fig.8)が完成した。その建築コンセプトの斬新さや都市美観上の問題が話題となったが、マレ地区というパリの中でも中世的迷路性を残しているエリアの中で美術館や図書館という公共機能と共に、傾斜を持った都市広場を都市のヴォイドとして挿入したことは、この地域の賑わいある都市環境の創造に大きな役割を果
たしているといえる。
1980年代に入ってからは、パリを舞台に一連の国家的プロジェクト(グランプロジェ)が始動し、オープンスペースという視点においても、いくつかの重要な計画が実現している。
まず、レ・アールの再開発(fig.9)であるが、これはかつての食品市場が郊外に移転した跡を公園として整備したもので、地下には商業施設や公共施設が設けられている。計画決定にあたっては非常に長期間に渡って様々な議論が繰り広げられたが、実現されたものは残念ながら凡庸で、パリ中心部の都市環境の質を向上させるようなデザインにはなっていない。これは、魅力ある都市のオープンスペースとして必要な基本的要件、すなわち、楽しくかつ安心して回遊できる空間認識のしやすさと迷路性とのバランス、周辺の建物や都市空間との機能的・動線的連動性、自分とその場所との対話(コミュニケーション)を喚起する空間的しつらい等々があまり考慮されておらず、単に空地を緑で埋め、通
過交通のための通路を設けたにすぎないのである。そして、周辺街区との関連以前に同じエリア内の商業施設(フォーラム・レ・アール)との繋がりすら、希薄なものとなっている。
続いて、ラ・ヴィレット公園(fig.10-11)では、21世紀の都市公園のモデルをつくるべく国際コンペが催され、建築家チュミ(Bernard
Tschumi)の案が選出された。彼の提案は、120mグリッドに並べられた様々な機能を持ったフォリー(点)と人の移動するよりどころとしての道(線)、そして開放的広場(面
)の3つのレイアを重ね合わせて、その場所毎の偶発的に起こる出来事が、公園の情景を生み出すという、映画の手法も取り入れた極めて前衛的でコンセプチュアルなものであった。その、基本的システムと細部のディテールのみをデザインし、その間の部分は自然と時間に任せるという考え方は、完成後10年以上が経って緑が成長し当初の挑戦的な形態が日常風景になじんできているのを見ると、彼の思惑通
りと言うことも言えるし、また逆に公園とは所詮、訪れる人々にとっては緑の芝生以上の何ものでもないということを証明しているようでもある。はっきり言えるのは、この場所性というものをあえて消したデザインは20世紀の代表的な実験ではあっても、決して21世紀の都市公園のモデルにはなり得なかったのである。
アンドレ・シトロエン公園(1993年、fig.12-13)のコンペでは、ラ・ヴィレット公園の反省に基づき、建築家と造園家のチームでの参加が義務づけられ、結果
二つのチームのコラボレーションにより実現された。基本的構成は、セーヌに直交して矩形の芝生広場を設け、その軸線を強調する建物(ガラスの温室)をシンメトリックに置きながら、周囲にはそれぞれテーマに基づいた多様な小空間を配置するという、極めて古典的な手法によりデザインされている。その空間のわかりやすさと居心地のよさ、また、植栽の独創的なテーマ性と細部のデザイン密度の高さは評価に値するが、一方で周辺の再開発地域とのデザイン的・空間的断絶は、この公園に対して都市のオープンスペースというより、広大な箱庭のような印象を与えてしまっているのも事実である。
ベルシー公園(1997-8年、fig.14-15)は、同じセーヌ川沿いのワイン倉庫群があった場所に設けられた。このプロジェクトにおいても、建築家と造園家のコラボレーションによって計画されている。具体的には、敷地北側の幹線道路沿いに集合住宅を並べ、セーヌ側のテラスとの間に、奥行き約150m、幅約600mの矩形のオープンスペースを設けている。これは、大きく3つの部分に分かれており、都心に近い西側から、都市的スケールを持つ芝生広場、テーマ毎に幾つかの小菜園に分節されたより住宅的スケールの庭園、そして池を中心としたロマン派風庭園という構成になっている。この公園の大きな特徴は、かつての舗床や引き込み線の線路、並木などをあたらしいデザインの中にうまく取り込んでいることであり、こうして実現された空間は、単に土地の歴史的記録を残すというだけでなく、その場所の記憶を顕在化し、時間と空間を重ね合わせた奥行きのある都市性を獲得している。住棟群は建築家ビュッフィ(Jean-Pierre
Buffi)がコーディネーターとなって、ランドスケープと一体となったデザインでまとめられている。
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