建築を延命させる 関西日仏学館のリノベーションと近代建築の保存
Renovation de l'Institut
franco-japonais du Kansai et la conservation du patrimoine moderne
三宅理一 慶應義塾大学教授
Riichi MIYAKE
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昨今保存問題が議論された中で興味深いのは、鎌倉の神奈川県立近代美術館【図1】の例である。この建築は1949年に坂倉準三によって設計され、小規模ながらも美しい空間構成とデザインで知られている。戦前にパリにてル・コルビュジエのところで修業し、1937年のパリ万博に際して世界的に絶賛を浴びた日本館を設計した坂倉の快心の作品である。また、美術関係者にとっても戦後の近代美術をリードした館として高い評価が下されている。ところが、戦後の物資不足の中で建設せざるをえず、鉄骨の構造とアスベスト板の壁仕上げというローコストの組み合わせに頼ったところでメンテナンスや耐用年数上の問題を抱え込んでしまっていた。手狭であるという理由は別
館を増築してしのいでいたが、地権者の鶴岡八幡宮や運営母体の神奈川県の意向もあって県の別
の土地に官民共同のPFI方式を用いた新美術館の建設が具体的に審議され始める。そのため一時は新美術館の完成を待って閉館・取り壊しという方向に傾いていたが、関係者の反対により当面
の利用ということで来年には改装工事が行われることとなった。絶対的に保護されるというのではなく、暫定利用といういかにも日本的な玉
虫色の解決だが、それでも取り壊されるよりはましだということで、この館への期待が高まっている。
戦後建築の保護に関するもうひとつの事例として挙げられるのは、ル・コルビュジエ設計による東京上野の国立西洋美術館(1959年竣工)【図2】の耐震補強工事である。この美術館の計画は、松方コレクションの日本返還に際してフランスの建築家による美術館建設という条件をフランス政府がつけたことから始まった。フランス留学組の前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が日本側の担当建築家となり、ル・コルビュジエ事務所から送られてきた基本設計の図面
を実施設計に移し変え、建設に到った経緯がある。20世紀を代表する建築家の極東における代表的な作品ということでその保護はある意味では絶対的に近いものがあったが、問題は地震に対する抵抗力であった。ル・コルビュジエの基本的な建築言語であるピロティと柱を多用し、壁面
量が圧倒的に足りない。1981年に改訂された新耐震基準から見れば、既存不適格のラベルが押されるべき建築であって、阪神淡路大震災程度の地震で倒壊の危険はきわめて大きい。公共建築に対する耐震基準の見直しの中でこの問題のための検討委員会が設けられ、その保護のための方策が練られた。結論として、免震構造を採用することが決定され、そのための工事が一昨年まで行われた。具体的には、建物の地下部分を深く掘削し、ダンパーによって建築の基礎を支えるようにしたもので、わかりやすく言えばきゃしゃな建築の下に座布団を入れ、地震の揺れを座布団で吸収するという方式である。レトロフィット構法という名前からして、いかにも古い文化財的建築に適したものとして開発されたのがわかる。費用的にはきわめて大きな負担であったが、これによって地震の恐怖から近代建築遺産が救われたのである。
こうしてみると、年号が平成に変ったせいか、戦前の昭和はそろそろ絶対歴史圏に近づいてきたようにも見受けられるが、戦後はその後の成長が急激であり、まだ現代に近いということもあって、文化財的な保護の策はまだ広くは及んでいない。ただ、いくつかの重要な近代建築については、パイロット的な事業が進められているのは確かで、その影響をどう評価するかが今問われている。ローカルな建築よりは国際的な知名度をバックボーンとした作品のほうが有利なのは仕方がないようだ。
日本とフランスの関係という点で、近代建築遺産を眺めてみると、先に示した二つの美術館を含めて、社会的に高く認知されている建築が多いのが特徴である。その質の高さはそのまま両国の文化的関係を示していると思われるが、同時に建築という文化と技術の双方に関わる領域において両国の間できわめて高い水準のクライテリアが設定されていることが大いに寄与しているに違いない。先に示した昭和の第一期と第二期においてはどちらかといえばフランスが日本に対して働きかけ、そのための建築が日本国内に建てられていった経緯がある。第三期になると今度は日仏交流の新時代を迎え、フランスにも多くの日本関係の建築が官民双方のレベルで計画され、将来的にその維持が大きな課題となっていくことが予想される。
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