建築を延命させる 関西日仏学館のリノベーションと近代建築の保存

Renovation de l'Institut franco-japonais du Kansai et la conservation du patrimoine moderne

三宅理一 慶應義塾大学教授  Riichi MIYAKE

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遺産としての近代建築

比較的最近まで、正確には1980年頃まで、我国の文化財建築といえば江戸時代以前の社寺や城郭、民家、ならびに明治の洋風近代建築までを指すのが一般 的だった。要は百年前以降のものは新しく、まだ文化財としての価値が発生しない、もしくは十分に時代の検証に耐えていないということだった。別 の言い方をすれば、文化財に指定されるためには、その時代のものであればともかく保護すべきであるという合意が成り立つための「絶対歴史圏」の中に入らなければならないということである。大正・昭和はまだその絶対圏の中に入っていなかったわけだ。

同じ頃、ヨーロッパでは、20世紀建築、とりわけモダニズムの名建築は、それ自体が新たな文化財(歴史的記念物)のジャンルをかたちづくり、独自の保存修復の方法論を打ちたてなければならないという議論に沸いていた。フランスでいえば、オーギュスト・ペレーやル・コルビュジエの建築がそうであり、ドイツのミース・ファン・デル・ローエやシャロウン、フィンランドのアールトなどが同じような位 置付けとなっていた。そして、ロンシャンの聖堂のような1950年代の建築までもが保護の対象と位 置付けられたのは、モダニズムを20世紀という時代の栄えある文化現象として位 置付ける強い歴史観が働いているように見受けられた。絶対歴史圏という意味では、ヨーロッパの方が50年ほど今日に近づいていたのである。

しかし、その後、日本にも20世紀建築への無関心が将来の世代に対してとんでもない禍根を残すのではないか、といった議論が繰り返しなされるようになってきた。しかも、以前にもまして速いスピードで20世紀の建築が取り壊されていくのが実感として伝わってきた。1960年代にフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルを取り壊してしまうという「国際的愚挙」に及んだ日本としては、その轍を踏まないためにも、20世紀の建築遺産に対して新たな評価の体制と維持と保護の仕組みづくりが必要だった。文化財サイドからは、文化財の枠を広げるということで、ヨーロッパに倣って登録文化財の制度をつくり、また「近代化遺産」という新たな分野を開拓した。明治以降の土木遺産や都市遺産を積極的に評価し、また工場や港湾などの産業施設も文化財の仲間に加えることとなった。

昭和の建築は多産である。昭和建築にあえて時代区分を行うとすれば、約20―25年ごとに三期に分けて考えることができる。第一期は1920年代から1940年代つまり戦前の建築、第二期は1945年から1960年代まで、つまり戦後の復興期と高度成長の時期、そして第三期がその後の爛熟した経済の時代ということになる。途中第二次大戦というカタストロフィを挟みながら、20世紀のかなりの部分を占め、近代日本人の心情を形成する上で決定的な意味をもった時代でもある。

その第一期は、政治的不安がありながらも大都市の整備が進み、都市活動の発展から数多くの公共建築や商業ビルを生み出し、さらにすぐれた近代和風住宅を各地に登場させた。これら全部をデータベース化するのは建築史関係者が相対的に少ないということもあってかなりの困難をともない、特に税制上の理由もあって所有者が公開を好まない高額所得者の住宅は、代替わりとともに知らないうちに建て替えれられていく例が目立っている。

その後の第二期の時代は、戦災復興とともに我国のモダニズムが国際的な認知を得る時代でもある。坂倉準三、丹下健三、吉村順三といったカリスマ性をもった建築家が異なった場所で活躍し、それぞれ国際的な評価を得ていく。東京オリンピックといった国家的イベントがその後押しとなり、ハイ・モダンな公共建築がその時代のスタイルを決めていた。ところが、それらの保護となると問題は深刻である。なかでも公共建築が償却期間を過ぎたという理由で次から次に取り壊されている。横浜市の例をとれば、1945年から65年までに建設された公共建築の8割は既に取り壊されたことがわかっており、他の大都市も似たようなものと予測される。行政当局も戦前の建築保護が手一杯で、なかなか戦後のものにまで手が回らない。