フランス歴史的記念建造物の多様化の歩み
La diversification des monuments historiques prot使市 en France

北河大次郎 Daijiro KITAGAWA

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フランスにおける歴史的記念建造物保護の拡大

戦争の遺構
まず、歴史的記念建造物monument historiqueという言葉について考えてみよう。そもそもmonumentという言葉はラテン語のmonumentumを語源とし、この言葉自身「呼び起こす」という意味を持つmonereから派生している。云うならばmonumentは人々の(宗教的、血縁的、社会的・・・)記憶を呼び起こす、さらには古くからある共通 認識などを(多くの場合慣習的に)今に再生する一種の装置として造られた人工物である。それに対して、歴史的記念建造物monument historiqueは元来記憶の再生を目的に造られたわけではなく、現代人の回顧的視点から、歴史を証徴するものと判断された人工物なのだが、monumentという語を含むこの言葉には、歴史的建造物という言葉のもつ中立的な響きを越えた、また日本語の文化財という言葉にもない、人々の感情を揺り動かすより複合的な意味合いが込められていることに留意しなければならない。
歴史的記念建造物という言葉に込められたこのような意味を理解することなくして、フランスの第1次世界大戦の遺構が1920年にすでに指定されているという事実を説明することは困難であろう。それは、戦争を記念するためにmonuments comm士oratifsを建造するのと同時に、遺構をmonument historiqueにするという、歴史学的というよりも、時代精神を反映した政治的判断によるものである。1920年には、ベルフォールBelfortにそびえる砲台が指定され、1921・2年にはピカルディPicardie、シャンパーニュ・アルデンヌChampagne-Ardenne、ロレーヌLorraine各地の戦場跡の遺構が指定されている。それらの遺構は、20世紀の構造物としてフランスで最初に保護された歴史的記念建造物であると同時に、保護対象の多様化を示す一つの象徴的な建造物であった。
ただし、世界大戦といった特殊な歴史的事象でも介在しない限り、まだ古くない対象物を歴史的に重要であると判断するのは難しい。実際、歴史的記念建造物の保護の根拠となる1913年12月13日法では、保護対象を(当時の文面 では)考古学的価値を有する建造物としており(第2条)、第2次世界大戦時にも行われた戦争遺構の保護は、フランスの歴史的記念建造物保護の歴史から見れば、少々例外的な措置であったことを付言しておく。

アンドレ・マルローの時代
感情的な(場合によっては異なる感情のもつれを生じるような)判断に依存せず、より系統的な考察に導かれてフランスの建造物保護行政の対象が多様化するのは、特に文化省が生まれる1959年以降、つまりアンドレ・マルロー Andr Malrauxが文化大臣に就任する後のことである。
パリのシャンゼリゼ劇場が、その建築史的意義によって20世紀の建築として初めて指定(1957年)されて以来、同時代の建築の保護がなかなか進まない状況にあって、彼は1961年4月18日の法改正で、前述の考古学的価値ではなく、歴史的または芸術的価値を有すあらゆる時代の建造物が歴史的記念建造物として登録されうることを明らかにする。  この法的枠組みの拡大と同時に、1963年には、時代を代表しすでに逝去した建築家の関与、時代の流れを作り出したか、当時の先端技術が用いられたか、等を判断軸とした1850年以降の記念建造物リストが建築の専門家によって作成される。さらに、まだ活躍している著名な建築家の作品を含めて、アールヌーボー・アールデコの時代、インターナショナル様式の時代の建造物を取り上げたリストもその後に作成される。
ユニテ・ダビタシオン歴史的記念建造物上級委員会は、1964年1月の会議でこれらのリストに基づく指定・登録を保留し、その後何度か否定的な見解を表明するが、アンドレ・マルローとリスト作成に関与した文化省建築局長の強い意向で、これらの新しい建築物の保護が徐々に進められていく。特に、アールヌーボーの作品(中でもパリ16区自邸等のギマールGuimardの作品)や、その後の建築家ペレPerret(ル・アーヴルのサンジョセフ教会など)、ル・コルビュジェLe Corbusier(写真1)らの作品の指定・登録が進められる。このうち、当時まだ活躍中だったル・コルビュジェ(彼は1965年に没する)は、自ら設計した12棟の建築物を保護するように文化省に積極的に働きかけ、生存中の建築家の作品を指定・登録しないという歴史的記念建造物上級委員会の方針にも関わらず、結局10作品が歴史的記念建造物追加目録への登録というかたちで保護されることとなる。こうして、リストに載せられた100件ほどの建造物のうちおよそ半数が1964年から1967年の間に登録されることとなる。

地域の歴史の証として
アンドレ・マルローが大臣を退任し、一時期近代の建造物の保護は停滞するが、19世紀の代表的鉄骨造建造物の一つであるパリ中央市場の撤去(1971年)を境に、再び人々の意識が近代の建造物保護に向けられることとなる。各フランス建築地方保護官が文化省の通 達に従い提出した、1830年以降に建てられた域内の優れた記念建造物リストをもとに、国がリストを作成し、1974年、文化大臣ミシェル・ギMichel Guyが歴史的記念建造物上級委員会にそのリストに載せられた建造物の歴史的記念建造物追加目録への登録について諮問するのである。これら300件程の建造物の内、約1/3が20世紀の建造物で、その3/4程が審議の後に登録される(写 真2)。パリではなく地方を中心としたこの近代建造物の保護方針は注目に値する。
トニーガルニエのリヨン屠殺場この建造物リストには、保護すべき歴史的街並みのリストもつけられていた。これは、史跡に関する1930年の法律を根拠とする保護措置の試みの一つで、リストの中には、人口20.000人以上の都市の中心市街地が約100箇所含まれていた。ミシェル・ギはこれまでの優品主義的な保護行政の是正を視野に入れ、時代を代表する傑作のみでなく、これまで保護されてこなかった地域の歴史の証であるより身近な街並みの保護を訴えるのである。