都市に都市を造る ―ブーローニュ・ビヤンクールにおけるルノーの跡地の経験―
Faire la ville sur la ville l'experience des terrains Renault Boulogne-Billancourt

鳥海 基樹  Motoki TORIUMI 東京都立大学専任講師

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濫立するプロジェクト

パリとの関係パリとの関係この様な好条件の土地が開放されることとなったのだからさあ大変だ。それは今日に至る迄、自薦他薦依頼自前を問わず100以上のプロジェクトが公になっていることからも伺えるが、それをひとつひとつ検証するわけにはいかない。ここでは、主要なものを年表風に追いかけてみよう:
◎ 1989年:時の首相ミッシェル・ロカールが財務省のジャン=ユード・ルリエに基本調査を依頼。これがその後のプロジェクトの基本ラインとなる;
◎ 1992年:ビヤンクール市が自主的に、「青き都市(Cit Bleue)」計画を策定;
◎ 1994年:ルノーが主にセガン島の再利用計画の意見を聴取。諮問を受けたのはシェ&モレル、シュメトフ&ウイドブロ、レンゾ・ピアノ、クリスチャン・ドゥ・ポルザンパルク、ライヒェン&ロベール、ロジャース&パートナーズ、そしてベルナール・チュミの7チーム;
◎ 1995年:元財務相で上院議員のジャン=ピエール・フルカドが市長に就任;
◎ 1996年:ルノー民営化;
◎ 1997年:32haの台形状の土地、11.5haのセガン島等の敷地に関し、関係自治体が連合して将来計画を元パリ市街局パリ都市計画アトリエ(APUR)のフランソワ・グレテールをコーディネーターに、ジャン=ピエール・ビュッフィ、ポール・シュメトフ、ブルーノ・フォルティエの3建築家に諮問し、フォルティエ案が最優秀案となる;
◎ 1998年:ジャン・ヌーヴェルがフォルティエ案を厳しく批判。マス・メディアを通 じて全国的な論争へ;
◎ 1999年:上記の論議を受け、市は再諮問を決定。ビランクールの両岸に関しては、ジャック・フェリエ&パトリック・シャヴァンヌ【図4】、イヴ・リオン、そしてアントワンヌ・グランバックに、セーヴル橋周辺に関しては、クリスチャン・ドゥヴィレール【図5】、タニア・コンコ、トルテル&グラシア&トルテルに依頼する。

1999年の最終諮問

さて、この1999年の最終諮問の条件は以下の通 りであった:
◎ セーヌ及びセガン島両岸の河岸を再生させる整備;
◎ 公共緑地や並木道の創設;
◎ トラムウェイを始めとする公共交通網の整備;
◎ 科学センター、住宅、商業、サーヴィス等、多様な用途の混在;
◎ 建物の高さや都市形態、景観等に於ける、歴史性の尊重。 その結果 最優秀案とされたのが、ビヤンクール両岸地区に関してはフェリエ&シャヴァンヌ案、セーヴル橋周辺に関してはドゥヴィレール案であった。
前者は、線型の公園のネットワークとセーヌ川に平行に配置された連続的な建物、さらにセーヌの河岸に計画されセガン島に開放されたエスプラナードによって公園都市を造り上げるというものである。
一方後者は、「都市の入口(entr仔 de ville)」を再び明確にし、さらにルノーの跡地とセーヴル橋のインターチェンジの間に結びつきを持たせようとするもので、エスプラナードやフォーラム等が中心に配されるというものであった。
さて、これらの当選案に基づき、地域圏レヴェルの問題である公共交通 網の整備が検討され、やはりトラムウェイの設置ということで結論を見た。これはパリ西方のビジネス・ディストリクトのデファンス地区から本地区を経由しイッシー・プレーヌに至る路線で、現在激しい自動車交通 によって歩行者にとって危険な空間となってしまっているセーヌの河岸の交通 量を減らすことが期待されている。
また両案を加味することで、セガン島の整備指針も以下の様に決定された:
◎ 記憶のよすがを形成すること;
◎ 両岸に散歩道を創設すること;
◎ 現在ルノーの工場が呈している様な、屹立する壁面による外観を再現すること;
◎ 景観的に整備された空間を創設すること;
◎ セーヌの景観を保全し、それが台形状の土地の側から見られる様にすること。 さらに、そこに立地する施設として、科学センター、芸術センター、学生・研究者のための滞在施設等が計画されている。
また、セガン島に限らず様々な施設が計画された。例えばルノーの倉庫を再利用した劇場は文化的都市計画の象徴になるであろうし、セーヴル橋近傍に建設予定のスポーツ・センターは経済的に恵まれていない周辺界隈と本計画地区を結合する社会的都市計画の象徴となるはずである。

フランソワ・ピノー財団

とはいえ、何と言っても大きいのがセガン島に入居予定のフランソワ・ピノー財団(Fondation Fran腔is PINAULT)で、そこに展覧される芸術作品は基本的にピノー氏のコレクションが核となるというメセナ財団である。しかも15000m2の常設展示場と7000m2の企画展示場という規模は、フランスに於けるメセナとしても最大の部類に入る。
さて、その美術館の建設ためにピノー氏は元文化省建築・遺産局長のフランソワ・バレをオーガナイザーとして担ぎ出し、国際コンペを実施することとした。招請されたのは、安藤忠雄(日本)、マニュエル・ゴートラン(フランス)、スティーヴン・ホール(アメリカ)、レム・コールハーズ(オランダ)、MVRDV(オランダ)、ドミニク・ペロー(フランス)、そしてアルヴァロ・シザ(ポルトガル)の7人の世界的建築家である。そして最優秀賞を獲得したのが安藤忠雄だった。