都市に都市を造る ―ブーローニュ・ビヤンクールにおけるルノーの跡地の経験―
Faire la ville sur la ville ―l'experience des terrains Renault Boulogne-Billancourt

鳥海 基樹  Motoki TORIUMI 東京都立大学専任講師

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En 2006, un mus仔 de Tadao Ando devra marquer la premi俊e 師ape de la mise en マuvre dユun projet ambitieux de reconversion dユun site industriel en milieu urbain. Il sユagit de la mise en valeur du terrain de Renault Boulogne-Billancourt. Heureusement, Mme Florence Humbert, ancienne am始ageuse la Mairie de cette commune, a donn une conf屍ence tr峻 int屍essante notre soci師. Historiquement, cユest en 1898 que la soci師 ヌRenault fr俊eネ fut fond仔 la commune de Billancourt et cette installation 師ait le point de d姿art de lユexpansion non seulement en France mais aussi dans le monde entier dユune entreprise de voiture fran溝ise. Cependant, apr峻 la Seconde Guerre Mondiale, lユ師roitesse du terrain g刃e cette soci師 en plein d思eloppement et Renault a finalement d残id, en 1989, le retrait total de ses usines de Boulogne-Billancourt. Situ dans une commune limitrophe de Paris, le r斬m始agement de ce terrain a provoqu un grand nombre de d暫ats. Bien que le projet de Bruno Fortier ait fait lユunanimit en 1997, Jean Nouvel m熟e la pol士ique contre ce programme et cette discussion d屍oul仔 non seulement sur le milieu professionnel mais aussi en mass m仕ia a beaucoup retard la d師ermination du projet. Cependant, ce nユ師ait pas pour rien. Au bout des d暫ats, la construction dユun mus仔 lユ罵e S使uin que la Fondation Pinault a bien voulu fut d残id仔 et lユarchitecte japonais Tadao Ando a gagn le laur斬t dans le concours. Lユexpos de Madame Humbert a bien tent de retracer les 思始ements significatifs de la longue histoire dユun site industriel en mutation. Les le腔ns tirer de cette histoire sont multiples et complexes. Elle nユen a retenu quユune: m仁e avec une volont politique forte, des partenaires motiv市, des experts et des concepteurs brillants, la ville r市iste et ne se construit que dans la longue dur仔; il sユagit de ヌconstruire la ville sur la villeネ.

 

はじめに

日本を代表する建築家である安藤忠雄が、パリ近郊のルノーの工場跡地に建設される美術館の設計コンペを獲ったという話は、本誌をお読みの方ならご存知の方も多いと思う。しかし、その詳細については朧気というのが正直なところであろう。   誠に時宜を得たことに、去る2002年4月16日、その美術館が計画されているブーローニュ・ビヤンクール市の都市計画課に勤務経験がおありのノルマンディー建築大学校講師フロランス・ウンベール(Florence HUMBERT)女史が、本会に於いてまさにこのテーマで講演をされた。以下にその要旨を記そう。

まず何より表記の演題が本講演の内容を雄弁に物語っている。即ち安藤のプロジェクトは突如出現したものではなく、同市の長い歴史の堆積の上に加わった新たな一層でしかない、という点である。実際、過去に目を向ければこの決定迄に17年間の紆余曲折があり、未来にそれを転じれば2006年に竣工予定のこの美術館は、「50ha(=50万m2)に100万m2」をつくるという同市の野心的目標の第一歩に過ぎないのだ。

計画予定地

パリとの関係セガン島ブーローニュ・ビヤンクール市はパリ第16区に隣接し、セーヌ川の蛇行に沿って展開している。人口10万7千人のイル・ドゥ・フランス地方圏第2の都市で、パリ南西に位 置していることもあり比較的裕福な都市とされている。この様な場所で、市の法人税の3分の1を納め3万人の雇用を創出しているルノーが撤退し、50haの土地を手放すことになったのだから周辺の自治体はおろか国をも巻き込む一大事だ。安藤の美術館が計画されているのは、現在もルノーの工場が戦艦の様に陣取るセーヌ川の中州、セガン島である。【図1,2】

歴史

ルノー工場の発展経緯アンシャン・レジューム下、この辺りは畑と荒れ地ばかりの土地であった。その後大革命に拠る土地の接収19世紀の都市の膨張によって徐々に都市化が進行したが、決定的だったのはオスマン男爵のパリ大改造である。というのもそれによりチエールの城壁迄市域が拡張されたため、ビランクールには市内を追われた下層階級、課税が開始される市壁の直近で商売を営もうとする人々、そして市内では公衆衛生上禁止された工場等が殺到したのだ。  その様な混乱期にここに別荘を購入したのがアルフレッド・ルノーで、彼にはフェルナン、マルセル、そしてルイの3人の息子がいた。そして、中でも機械好きの三男ルイが、兄達に経営を任せながら1898年に創設したのがルノー兄弟商会で、ここからブーローニュ・ビヤンクール市とルノーの黄金時代が幕を開ける。【図3】
第2次大戦前には、ルノーの工場用地は右岸の台形上の土地やセガン島を含め約77haを占めるに至ったが、戦争中に80%の工場が破壊され、その上戦後にはドイツに協力的だったとして国有化されることとなる。この時期の建築を担当したのが、パリ20区のドレ門傍にあるアフリカ・オセアニア博物館の建築家として著名なアルフレッド・ラプラッドだった。
下って1982年、既に1952年から手狭になったこの地から外部に諸施設を転居させていたルノーは建築家クロード・ヴァスコニに「ビヤンクール2000」なる再生計画の立案を依頼するが、赤字経営、さらには経営者の暗殺等が続き、1989年、ついにこの場所からの撤退が宣言される。